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2024/11/23 11:11 |
序章



ネクタイを緩めながら家までの緩やかな坂道を登る男がいる。
夏だというのにネクタイを締めて、
ワイシャツのボタンを一番上まで留めているなんてどうかしてる―
その男は不満を顔全体に表現しながら、先ほどむしり取ったネクタイで額の汗をぬぐう。

暑苦しさから束の間解放され、空を仰ぐ。
首元に滑り込んでくる夜風は生温いとはいえ、汗ばんだ皮膚には心地が良い。

しかし、雨上がりの空はこうも澄み渡っていて気持ちのいいものか。
無論真夏の雨上がりの空気など、蒸暑さが高まるだけで酷いものではあるが。

夏の夜空が好きだ、とその男はつくづく思う。

横浜の夜空は広島の片田舎のそれとは違って、ぼうっと明るく、
ナトリウム灯を反射しているためか不気味なピンク色を湛えている。

夏の大三角が辛うじて夜空に輝いている。
一等星という言葉の「一」という数字は、
いつから「序数」ではなく「単独の」、という意味になったのだろうか。
都会では、星の生存競争もまた激しいものだ。
輝きが少しでも落ちたものは、夜空の明るさに包まれて消えていく。

等級の低い、名も無い星にふと自分を重ね合わせ、瞬間かぶりを振る。

片手で携帯電話をいじりながら、この坂道を自転車で登っていく若い女に抜かれる。
電動機付自転車はその若い女に体たらくと脂肪を与えるだけに過ぎない。
その女のメール相手も、まさか女が電動機付自転車で坂道を登りながら
メールを打っているとは思ってもいないだろう。

やれやれ、といった具合にその男は首筋をぽりぽりと掻く。
その爪に慣れない感触が伝わってくる。

何だ?その男はいぶかしげに自らの左手を見つめる。
爪の先にはひらひらとしたものが付着している。

それは日焼けによって剥けた皮膚だった。社会人らしからぬ日焼け跡である。
そういえば先々週の日曜日、海で学生の頃のようにはしゃいだのだ―

あの日の灼熱の様な日照りを思い出し、体温がぐっと上昇する。
男は冷蔵庫の中にある冷たい飲み物を連想せずにはおれず、足取りを速める。

可及的速やかに。



僕は鍵もかかっていない玄関のドアを開けた。
鍵は先週の金曜日に紛失したきりで、会社で始末書を書くのを恐れて
今でも保留にしたままにしている。
ドアが開いた瞬間、その隙間からひんやりとした空気が顔に吹き付けてきた。

冷房が効いている―

確かに僕はいつも、家の帰り道で考えている。
誰かが、僕が家に着くほんの数分前にエアコンの電源を入れておいてくれたら。
もしお茶が冷蔵庫の外に出しっぱなしにしてあれば、
それを冷蔵庫に仕舞い直しておいてくれたら。

だけどそれは自己都合の勝手な夢想であり、そんな事は決して起こらない。
しかし今回は例外といっても過言ではない。
何せ、家の鍵はかからないのだから。
誰でもこの家に入る事は出来るし、エアコンのスイッチを押すことなんて
いまどき幼稚園児でも解る簡単なことだろう。

では誰が―何のために?
左足から靴を脱ぎとる間に「誰が」の部分に想像をめぐらす。
まず僕の家を知っている人間で、その中で、かつ、僕が鍵をかけていない事を知っている人間だろう。
いや、しかしたまたま偶然尋ねてみたら鍵があいていて
そのまま入ってきたという可能性も否定できないため、二番目の仮定は崩れる。
家を知っている人間、というのもそういう意味では崩れてくるが。
親しい人間であれば、考えられなくも無い。
また、極端な二つの例をあげるのであれば、
エアコンを付けて堂々と盗みを働く空き巣か、
さもなくば、僕のためを思い、帰宅時間に合わせてエアコンを予め付けてくれる、
そんなストーカー気質の人間か。

どちらにしろ、心当たりはない。

右の靴を脱ぎ取り終えてリビングまでの2,3歩の間に
「何のために」の部分に考えの矛先を向ける。

何のために―
僕が常々「家に帰ったらエアコンがついていればいいのに」と思っている事を
知っていて、喜ばせようとしたのか。
はたまたただ単に人の家で勝手にエアコンを付けて涼んででもいたのだろうか。

リビングのドアに手をかけた瞬間、頭の中に閃光が走る。

知っている。誰がこのエアコンを付けたのかを。
一番良く知っているはずだった。


16時間前、この部屋で起きた出来事が頭の中に鮮烈に蘇る。

その男はアイロンをかけていた。
そもそもアイロンの熱など8畳弱の部屋にどれだけの影響を
与えるのかは定かではないが、
その男はアイロンをかけながら汗をかいていた。
アイロンを握った手とは違った手は机に伸びていった。
アイロンをかけながら手探りで何かを探していた。
探る指先が一点で止まる。
紫色のボタンには指先でボタンだと解るように小さな凹凸が付けられている。
そのボタンを迷うことなく指先で押下する。

瞬間、アイロンが発する蒸気の流れが変わる。
漫画のフキダシの様に、きれいな形で真上に蒸散していたスチームが、
突如吹き降ろしてきた冷風の前で渦を描く。
冷風とスチームに色が付いていたならば、さぞ美しい光景だったろう。
水面に落とした水彩絵の具の様に、マーブルの渦を中空に描いたことだろう。

男はせっせとアイロンをかけ、パリッとしたシャツを羽織って
満足そうな笑みを浮かべてこの家を後にしていた。



とても同一人物とは思えない。

何度も腕まくりをしては戻しを繰り返したワイシャツの袖は
無数の皺を刻み、襟は汗を吸着してくたっている。
顔には暑さと疲れの色を刻み、脂汗がぎらついている。


単純に物事を考えれば、この涼しさを享受して幸せを感じれば良い。

しかし僕の頭の中には16時間分の「ドライ・27度・風量自動」のコンビが
どれだけのメーターを回したのだろうかという事だけだった。

過去の自分が偶然にもくれたこのプレゼントを、僕は疎ましく感じていた。

その時ふと思った。
あのパリッとしたシャツを着ていた16時間前の男は、ただ単にエアコンを
消し忘れただけなのだろうか。
そうかもしれない。しかし、もし気付いたとして、電源を切っていただろうか。
おそらく、最終的には切るのだろう。だが切るにせよ、
「まあいいか。」
きっと、こう思って放っておく位の心の余裕はあったに違いない。


それが何だ。

16時間後のクタクタシャツの僕は、「まあいいか。」なんて
考える余裕すら持ち合わせてはいない。


エアコンを切り窓を開け、ベランダに出る。
風は相変わらず生温く、夜空に浮かぶ雲はいつもよりも速く流れていく。
一等星はなおこの横浜の空に輝き続けている。



夏の大三角の中にベガという星がある。
地球の300倍ほどの大きさを誇りながらも、地球の1/2の時間で自転をする。
質量は60万倍。そんな巨大なものが高速で回転すれば、
自らにかかる遠心力は想像を絶するものとなる。
遠心力でベガが自壊するパワーを100とすれば、
ベガが自転することで自らにかけているパワーは94にもなる。

自らが壊れる限界に近い部分で、
あの星は辛うじて一等星という称号を手に入れた。
自分はどうだろう。
このぼんやりと明るい都会の中にこのまま融けていくのだろうか。


烏龍茶を注いだグラスに無数の水滴が付着している。
少し温くなったお茶を飲み干して、ぼくはスーツを脱ぐ。

窓を閉め、エアコンのスイッチをもう一度入れた。
あの、玄関で感じた疎ましさを感じることはもう無かった。


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2008/07/28 23:05 | Comments(5) | TrackBack() | 日常

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コメント

可及的速やかはジョタのおはこ笑
posted by mikio at 2008/07/28 23:22 [ コメントを修正する ]
みきろー
よくわかったな笑
今日ジョタのプリント見ながら苛ついたので使ってみた。
posted by 雅 at 2008/07/28 23:39 [ コメントを修正する ]
みきろー
よくわかったな笑
今日ジョタのプリント見ながら苛ついたので使ってみた。
posted by 雅 at 2008/07/29 00:50 [ コメントを修正する ]
鍵はカバンの中に入ってないの??
早く見つかるといいね。

やっと最近お金が溜まってきたから、投信でも始めようと思ってさ。でもさ、信用金庫に出資するのが実はいいかもって(笑)
posted by きくい at 2008/07/29 00:50 [ コメントを修正する ]
きくいさん
とりあえず見つかることだけを祈っています。
カバンの中は何十回と確認しましたが、まだ出てきません!!

配当狙いっすか笑 でも案外いいかもですね。
posted by 雅 at 2008/07/29 22:33 [ コメントを修正する ]

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